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「生きた田」奇跡の実り・冷害の中、報われた信念
有機農業の草分け・星寛治さん(S29卒)
(2020年12月4日山形新聞より)


日本の有機農業をリードしてきた星寛治さん(S29卒)。
命と向き合う生き方は、多くの人を引きつける=高畠町元和田

 1973(昭和48)年6月、高畠農協(現JA山形おきたま)の職員だった遠藤周次さん(80)=高畠町元和田=の元に、東京から一通の手紙が届いた。差出人は有機農業の父と称された一楽照雄さん。2通の便せんには、高畠の農業青年に向けた激励の言葉がつづられていた。

 「今の日本では、全く稀有の存在というべき若人たちを発見して、救はれた思いをしました。(中略)二十世紀の日本に蔓延している迷信『金儲け主義』からの解放地区を実現してください」(原文のまま)

 ■近代化の影

 その手紙から時をさかのぼること12年。時代は高度経済成長期。農業の近代化が進み始め、高畠でも農薬の空中散布がスタートしていた。手を焼いていた病害虫は一気に少なくなったが、営農指導員として農薬や化学肥料の普及に奔走していた遠藤さんの体は異変を感じ始める。手足はだるく、時折意識はもうろうとする。睡眠障害による食欲不振で体重も減った。「これはおかしい」

 日本有機農業研究会発起人の一楽さんに、遠藤さんはすがる思いで電話をかけた。その熱意が実り、高畠での講演が実現する。73年初夏、一楽さんが健康と環境を守るために説いた有機農業の道は、近代化に矛盾を感じ始めた農業青年たちにとって、価値観が変わるほどの衝撃だった、高畠の有機農業運動の胎動が聞こえた瞬間だった。後に有機農業の草分けといわれる農民詩人・星寛治さん(85・S29卒)=同町元和田=も当時、共同防除組合の役員を務めるなど農業近代化の先兵だった。だが、化学肥料で成長を急がせたリンゴの木が病気で壊滅。茶色の汁を流す小さな果実を手に、近代化の影を悟った。

 講演で目の当たりにした一楽さんの道理に触発され、星さんら若手農家38人が73年9月、高畠町有機農業研究会を発足させた。運動の柱は▽安全な食べ物をつくる▽生きた土をつくる―など五つ。農薬、化学肥料、除草剤は使わないと誓った。平均年齢27歳、近代農業しか知らない会員にとって、未知への挑戦だった。


有機農業の父・一楽照雄さん(右上)が初めて高畠を訪れた日、
星寛治さん、遠藤周次さんら町内の若者らで集まり、写真に収まった
=1973年6月、高畠町元和田

 ■笑われても

 初の実践となった74年春。年頭として運動をけん引してきた星さんたちは四つんばいになって雑草を取り、害虫は座敷ぼうきで払い落とした。悪戦苦闘する姿を見て、人々は「嫁殺し農業」「変わり者集団」と笑った。重労働に反して収量は確保できず、家族の理解を得られない会員は次々と脱会。程なく半分にまで減った。

 「世間から笑われることは百も承知だった。自分たちは正しいという信念は揺るがなかった」。星さんは麦わら帽子で顔を隠し、ひたすら除草機を押した。土の力を信じて。

 地道な努力が報われたのは、76年だった。記録的な冷害で白茶けた田んぼが広がる中、ぽつん、ぽつんと会員の稲田だけが黄金色に輝いた。奇跡のような光景に、笑っていた町の人々も足を止めて見入った。そこは農薬も化学肥料も使わない田んぼだった。微生物が繰り返す命の営みが土を温め、稲の成長を助けていたのだ。

 「命のるつぼに暮らす、その日常が幸せ。有機農業は私の生き方そのものですね」そう語る星さんの生きざまは「磁場」となり、多くの人々を高畠に呼び込むことになる。

豊穣の輝き次代に託す・農民詩人星寛治さん自叙伝出版(2019年9月18日山形新聞)
農民詩人・感性耕す喜び・星寛治さん(2018年1月4日朝日新聞)
他人に役立つ人生誓う 農民詩人・星寛治さん(2017年7月21日毎日新聞)