藩校興譲館、米沢中学、米沢一高、米沢西高、米沢興譲館高と続く米沢興譲館同窓会公式サイト

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30年を2時間半で・伊藤 均さん(七七会還暦記念誌より)PART3

 【深夜放送】
 受験勉強に明け暮れる中、学校から帰り晩御飯を食べ終わると、深夜放送という我々にとって本当の授業が始まりました。米沢は盆地のせいか、関東圏からのAM電波が入らなかったのです。そしてなぜか私が受信できたのは大阪・朝日放送の、ABCヤングリクエスト。道上洋三・桜井一枝両アナウンサーの司会(今で言うパーソナリティー)で若者らしい番組が進行していきました。場所柄を反映してか、コマーシャルも『天神橋筋ナカニワ時計店』などと流れ、やけに御堂筋をモチーフにした番組紹介が多かったのです。そして流される音楽は、ビートルズがラジオのトップテンを走り始めた時代でしたし、歌謡曲、フォークソングも同居して、混沌としていました。下駄とスリッパを片方ずつ履き、はかまを穿き、上着は背広で、髪の毛はマッシュルームカットでもおかしくない、様々な文化様式が交錯する混沌とした時代だったと思います。
 そんな中で私が高校3年の冬に深夜放送で聴き、ヒットするなと直感したのがワイルドワンズの『想い出の渚』でした。アメリカンフォークのコピーでなく、歌謡曲だった加山雄三やブルーコメッツからは脱皮し、加瀬邦彦の弾く12弦エレキギターのイントロが新しいサウンドとして新鮮でした。自分のタイプの女の子宛に、番組を通じて『思い出の渚』のリクエスト曲を届けるのが楽しみでした。米沢からのはがきが珍しかったのか、何度も私のリクエストはがきを採り上げてもらいました。どてらを着て、炬燵に足を突っ込んで背中が痛くなりながら、冬場の受験勉強をしたつもりになっていました。ともすれば受験ですさみがちな心が、深夜放送で救われたと思っているのは私だけでしょうか。

【芸が身を助けたエレキと宝物となったアルバイト】
 大学に進学後は、何はともあれエレキバンドを組んでどっぷり浸りました。初めて買ったエレキの、クラシックギターとは異なるアクリルカラーの色、あの重さ、そしてアンプを通して腹に響く低音、切り裂くような高音にしびれ、毎晩エレキを抱いて寝ました。首が随分長めですけれど、まあ彼女のようなものですね。ちょうどその頃がエレキブームの頂点で、米澤新聞社主催のアマチュアバンドコンテストがあるというので、特訓2ヶ月、バンドを結成しエントリーしたのです。猫も杓子も老若男女を問わずエレキに狂っていましたから、コンテスト当日も、野良仕事途中のばあちゃん、魚屋のおじさん、赤ん坊を背負った若奥さんや、お母さんが見たら卒倒しそうなぐらい短いスカートを穿いた女の子、監視役ながら興味津々の教員の方まで、会場はあふれんばかりの人でした。

アマチュアバンド大会

写真7:アマチュアバンドコンテストに出場

 写真7は我がバンド記念の1枚です。私達のバンドは『津軽じょんがら節』を演奏して入賞しました。私達の賞品ではありませんでしたが、大きな樽に入った醤油を賞品にもらったバンドがいました。持ち帰るのも分けるのもさぞかし大変だったでしょうねエ。
 エレキの時間以外には、自分が将来仕事としていくことを見つけようと真剣に考え、米沢駅の近くにあるT電機製作所にアルバイトで雇ってもらいました。主に公衆電話の部品や、電話を掛けた度数を計数して料金を求めるための度数計(カウンター)を製造している会社だったのです。このT電機で私が学ばせていただいたことは、アルバイトどころか、お金を納めてでも教えていただきたい、通う価値のある学習の場でした。モールドをやる化成品課、切削やプレスをやる加工課、200人ぐらいの人がコンベアーについて組み立てる製造ライン、検査課、工具課、メンテナンスから品質管理まで、3ヶ月ぐらいずつ履修させていただく機会に恵まれたのです。会社という組織についても理解が進みました。毎日が珍しく、生産現場ですから厳しくもありましたが楽しく興味深い日々でした。私のエレキは身を助け、このT電機の社員の方々との交流にもダンスパーティーなどで大いに役立ったのです。T電機での貴重な経験は私の宝物として今も感謝しています。

【近況】
 興譲館を卒業して2年目、同窓の無二の親友で、悪友でもあった陣野正敏君が上京して無線通信保守関係の会社で働き始めていました。私も早く、どこかで力いっぱい仕事がしてみたいと思っていたところに、私の遠縁に当たる叔父から、東京で会社を作るから来ないかと誘われたので、私も上京して就職することを決心しました。
 新たに興す会社は、当時全く耳慣れなかった粉体(ふんたい,粉の学術的総称です)の機械や測定器を製造販売していくこれからの分野だということでした。世の中の多くのものは、出発段階の材料か、加工の中間では、必ずといってよいほど粉末、あるいは粒子の段階を経て製品化されます。医薬や農薬、顔料や化粧品、セメントなどの建材、コンデンサなどの電子部品、プラスチック成形品さえも、元は粉だと言って差し支えないのです。そして粒子の大きさが粗いか細かいか、あるいは丸いか尖っているかといった,その粉の特性によって、製品の品質が大きく左右されるのです。 このように粉は物造りのキーポイントですから、粉を作る粉砕機や、粉砕機から出てきた粉の細かさを測る測定器を作ることは大きな産業基盤に発展しました。私も入社以来一貫して多種多様の粉砕機を開発し、プラントとして建設し、測定器も開発して製造販売しながら現在に至っています。わずか4人でスタートした会社でしたが、40年間何とか生活できてきたことは、努力した結果であり、随分運にも恵まれたからだと感謝している近況です。物造りを通じ、少しは社会貢献できたとも思っています。
 昨年夏に七七会の同窓会として『曽根伸良先生の野外授業』案内を拝受して出席し、大納言・曽根先生をはじめ、10数名の方々の懐かしいお顔に接することが出来ました。その時今野隆三君から、「来年は還暦七七会をやるし、記念誌も発行したいと思っているから、よければ投稿の準備をして置いてください」と言われ、今こうしてパソコンのキーボードを叩いています。興譲館卒業後40年以上が経ち、振り返ってみると実に様々な出来事がありました。身の回りでは、エアコンが普及して涼しいオフィスで設計や事務ができるようになりました。車が普及し新幹線が整備されて、早く快適な移動や旅行ができるようになりましたね。テープレコーダーがウォークマンになり、アイポッドになりました。レコードはCDになりましたよ。ビデオが登場し、DVDになりました。電報がテレックスになり、ファックスになり、今ではEメールで画像の送受信が双方向で瞬時にできるようになりましたね。医療だって進化しています。これらはみな、先輩が開発の先鞭をつけ、我々の世代が推進・改良してきたものじゃないですか。物質的にはまずまず進歩したし、捨てたものじゃないと思うのです。これからは心の充実ですね。
経済的には波がありますし、現在は潮流の底にあるのかも知れません。しかし経済が回復できるときは必ず来ると信じています。収入に応じ、身の丈にあった生活で切り抜けるなら、私達団塊の世代が向かっている生き方は、全体的に悪くない方向だと思えます。七七会同窓生の私達も、健康に気をつけながら60代へ踏み出しましょう

本稿を、何物にも代え難い良い思い出を頂いた七七会同窓生、故・佐藤健一郎、島貫孝、陣野正敏君に捧げます。
スタンドバイミー。  平成21年3月15日