藩校興譲館、米沢中学、米沢一高、米沢西高、米沢興譲館高と続く米沢興譲館同窓会公式サイト

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30年を2時間半で・伊藤 均さん(七七会還暦記念誌より)PART2

 また興譲館では修学旅行が無かったせいか、登山や白布マラソンが印象に残っています。登山は吾妻山が中心でした。次の写真4は、1学年の吾妻登山の際のスナップから。吉澤保夫君と佐藤健一郎君です。このほかの体育会系行事では、やはり『白布マラソン』でしょうか。私達の3学年のときに再開されたと記憶していますが、校舎北側のグラウンドに全校生徒が集合し、号砲一発スタート、講堂の脇を通り、剣道場を横に見ながら松の木の下をくぐって、東門から飛び出していきました。先生方の粋な計らいか、東高の前を通りますから、その時ばかりは皆颯爽と駆け抜けます。ところが松岬公園を過ぎる辺りからペースが落ち、南米沢駅そばの踏み切りはトボトボと渡り、船坂峠のアタックは這い上がっているような体たらくでした。しかしゴールの白布温泉に着き、確か休憩は東屋だったと思うのですが、カレーライスをしこたま食べたあとは元気を回復しました。人間、やはり食べることが一番ですね。数年前、高校生の夜の歩行祭を描いた恩田陸の『夜のピクニック』がベストセラーになりましたが、何故か白布マラソンがオーバーラップし、このような体育会系行事を通じた青春の思い出の共有はありがたいものだなあと感謝しています。写真5にグラウンド側から見た理科室・講堂・剣道場風景、写真6に生徒用玄関上の職員室棟を示しておきます。

グランド

写真5:白布マラソンはこのグランドからスタート
(撮影:昭和59年9月22日)

職員室

写真6:職員室は生徒用玄関の上だった

【縮先生】
 私の3学年の担任は、その陽に焼けた色黒のご様子から、インクなどの原料になる材料名を連想して『アニリンブラック』と称された縮二郎先生でした。そう名付けたのは立原和成君であり、誓って私では有りません。その他の先生にも曰くありげなニックネームが付いていて、まるで興譲館動物園・水族館か動物図鑑のようだったなどとは多くの卒業生に語り継がれるところです。
その縮先生は、ドラマ・3年B組金八先生のような、親しみやすい先生だったのです。進路指導の時、私が文系受験の3年1組だったにもかかわらず山形大学工学部を受験したいなどと申し出たものですからびっくりし、ギョロリとした目を更に大きくして、「本当かよ!」と腰を抜かし、金田一耕助探偵のようにもじゃもじゃ頭を掻きむしりながら悩んでおられました(フケは出ていませんでしたけれど)。しかしややあって「そうだな、お前がそう言うなら挑戦してみろ。まだ1年有る。やっぱり好きな道を目指して進むのが一番だ。自分の選択には責任を持て。そして後悔しないことが大事だぞ!」といって励まして下さったのです。このお陰で理科系受験を目指して歩み始め、席次300番台常連だった私も、山大の工業短期大学部へスレスレで合格、もぐりこむことができたのです。
 3学年のある日、縮先生の授業が自習だといいます。それはそれで生徒は皆大喜びしたのですが、午後遅くなって縮先生がなにやらこっそりと教室へ入ってこられました。聞けば前夜遅くまで酒席のお付き合いで盛り上がり、汽車通勤しておられた先生は、帰宅時に何を間違ったか米沢駅の上りの夜行列車に乗り込んでぐっすり寝込んでしまったのだそうです。ぼんやり目が覚めた時、「赤羽〜あかばね〜」と駅のアナウンスがこだまのように聞こえたそうですから仰天して跳び起き、下り急行に飛び乗って、昼過ぎにご帰還あそばしたとの事でした。また別の日には、黒い顔にやけに目立つ真っ白な絆創膏を貼り、肩からは三角巾で手を吊って教室に入ってこられました。この時は汽車通勤の列車から飛び降りたはずみに、ホームの柱とキスをしただけとのご本人の弁で、「ナ〜ニ、騒ぐほどの事ではない」などと仰って居られたものの相当痛そうに見えましたが・・・。ともかくこのような話題に事欠かない縮先生でしたが、生徒の教育指導のつぼは押さえておられ、かえって親しみを感じて色々ご相談できたのが良い思い出です。

【クラス対抗合唱コンクール】
 受験戦争の中ではありましたが、クラスの団結は3学年が一番強いようです。毎年夏の前にクラス対抗の合唱コンクールがありますが、団結を一番強く感じたのはこの時です。体育館を会場として、各クラスが課題曲と自由曲を一曲ずつアカペラで歌って競います。私たちが3学年のときはアメリカンフォークのブームだったこともあって、各クラスがフォークソングを選曲していました。キングストントリオ、ブラフォー、P.P.&M、ジョーン・バエズ、ボブ・ディランなど、すぐに当時のメロディーが蘇りますね。私たちのクラスには、立原君というブラスバンド所属の音楽のリーダーがいたのです。「課題曲はドンナ・ドンナでマイナー調の曲だから、自由曲は元気にメジャー調で行こう。ポイントを稼ぐためにも英語の歌詞で、しかも2部合唱で行こうじゃないか!自由曲はパフ(Puff)で行こう」と、自ら楽譜を作成してきました。哲学を目指す菊池健美、野球大好き・クマ公の淀野賢、和尚の渡部俊道、シャイな内谷啓一郎君など、音楽とはちょっと縁のなさそうな連中まで目を輝かせて参加しました。最初はギクシャクしていた合唱も立原君が高音・低音部を別々に練習させて合流させることで何とか仕上がりました。そして見事優勝したのです。団結の実感と歌う事の楽しさを感じさせて頂いた素晴らしい行事でした。今でも“Puff”は英語の歌詞で、高音部も低音部も歌うことができます。
 『風に吹かれて』は止むことの無い戦争への虚脱感や自分の未来が見えない不安感が、ボブ・ディランのしわがれた声に乗せてちょっと投げやりに歌われますが、この歌詞を支える若者らしい感性は、村上春樹の『風の歌を聴け』や『ノルウェイの森』に文学作品として開花したのではないでしょうか。このような感性から発した反戦の精神は、先日彼が受賞したエルサレム賞の受賞スピーチにも脈々と引き継がれており、村上春樹が我々の世代を代表する文学の担い手であることは間違いありません。代表作の一つのタイトルがビートルズのヒット曲:ノルウェーの森と同じであることも、新しい音楽ジャンルを切り開いた我々の世代のシンボルであるような気がします。
 若さというものは時折凄い爆発を見せて、優れた作品を産み出します。我々の高校時代からほんの少し遅れて登場したいくつかの和製フォークグループには拍手喝采です。社会体制の矛盾と息苦しさに反抗したストイックな風刺曲があるかと思えば、『帰ってきたヨッパライ』のように羽目をはずす遊び心があり、『イムジン河』は若者らしい正義感が素直に反映されているのではないでしょうか?楽曲の完成度という点でも、北山修の『風』、喜多条忠の『神田川』、伊勢正三の『なごり雪』などは、情景描写と心理描写が圧倒的な表現力で凝縮され、素晴らしい出来であり、未だにこれらを超える歌詞は生まれていないような気さえします。