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第9回 父母の精神第一に―今も伝わる「慈愛の政治」―(2014年4月18日毎日新聞山形版)

 慈愛に満ちた言い伝えがこれほど多い藩主も、そうはいないだろう。 第九代藩主上杉鷹山(1751〜1822年)。260年以上の歳月がたった今も敬愛され続ける理由は何だろう。
 鷹山の人間性に迫る逸話として、米沢市文化課郷土資料主査の青木昭博さんは「当時の間引きを無くすために苦慮した記録」を挙げる。

 江戸時代、貧苦のために生後間もない子供を殺す「間引き」という風習があった。鷹山はこの風習を藩民に何とかやめさせるよう、家臣に指導をお願いしている。
 「東北にある間引きという慣わしは嘆かわしい。貧苦はどの国にもあるものだし、殺生が悪いことは誰もが分かっているはずだ。だから、自分も父母によって生まれたことを思い合わせて赤子を育て上げるように藩民を諭すよう、返す返すもお願いする次第である」(現代文訳)
 鷹山は誰に対しても、常に謙虚に、穏やかに、理を通じて説得している。青木さんは「最後の部分に鷹山の人柄がよく表れている」と話す。


「上杉鷹山書状」左端は有名な「なせば成る」の句=米沢市丸の内上杉博物館所蔵

 鷹山は米沢藩主となった直後の1767年、米沢の春日神社に内密に誓詞を奉納した。「民の父母」の精神を第一に守る、と誓っている。この言葉は、鷹山の師で儒学者の細井平洲(1728〜1801年)の教えから来ている。平洲は「父母が子供を愛するように民を愛しなさい」と、儒教の思想を通じて藩主の心得を教えた。
 「右の事、堅く守ります。もし怠ることがあれば末代まで神罰を受けること覚悟します」(同)
 誓詞の最後にある言葉だ。鷹山16歳。誓詞が発見されたのは奉納から98年後だった。


米沢市上杉博物館学芸主査・角屋由美子さん
=米沢市丸の内・上杉博物館

 米沢市上杉博物館の学芸主査・角屋由美子さんは「鷹山の改革は、彼の人間性と結びついている」と語る。障害を持つ正室の幸姫(ゆきひめ)に最後まで愛情を持って接したこと、家臣と二人で藩内を見回った際に老婆の農作業を身分を隠して手伝った話など、人柄を示す逸話が数多く残っている。鷹山の藩政が「慈愛の政治」と言われるのもうなずける。そして「慈愛の政治」から興譲館という「心の徳」を重んじる学館が生まれた。

 1785年、鷹山は35歳で隠居し、藩主を継いだ治広に藩主の心得を贈った。それが有名な「伝国の辞」だ。
 「国家は先祖から子孫に伝えるところの国家であって、自分で勝手にしてはならない」
 「国家と人民のために立てられている君主であって、君主のために立てられている国家や人民ではない」(同)
 取材を通じて思ったのは、上杉鷹山という人物のどこにも私心が感じ取れないことだった。

【佐藤良一・S52卒】
第10回 受け継がれる信念―興譲館高校長インタビュー―につづく

4月18日毎日新聞山形版