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第1回 「人づくりは国づくり」―平洲の教え忠実に実践―(2014年4月8日毎日新聞山形版)


細井平洲直筆の「学則」の扁額。1917年の火災と1936年の大雪による講堂倒壊で一部破損した。

 教える側と学ぶ側。両者の心のあり方は、いつの時代も難しい課題だ。
 第9代藩主・上杉鷹山(1751〜1822年)が1776年に藩校「興譲館」を創設して以来、後身の県立米沢興譲館高に残る「学則」と、興譲館創設の趣意書「建学大意」は、一つの答えを示してくれる。
 「師は教えを施し、弟子はそれに素直に従う」
 「弟子は師を敬い、心を白紙にして学んだことを極める」


細井平洲

 興譲館の全教室に掲げられている「学則」。鷹山の師で儒学者の細井平洲(1728〜1801年)が創設時に自ら執筆した「学則」も同校に保管されている。内容は生徒の学ぶ心得だ。
 「学則」は、中国の春秋時代の思想家・管仲による漢文からの引用である。「『学則』の冒頭は、先生と生徒の関係というより、師匠と弟子の関係」と説明するのは、「鷹山の訓え」の著者、九里学園高の遠藤英先生だ。
 「先生は生徒に答えを教えるが、師匠は弟子に答えをそのまま教えない。要点を教え、あとは弟子の修行と実践に任せる」という。
 師の側の心得は「建学大意」にある。興譲館創設にあたって平洲が鷹山の諮問に答えた文書だ。
 「藩主は教師・学校を大切にする」
 「教師は人びとから信頼される存在になる」
 「その信頼の源は教師のたゆみない実践にある」
 意訳だが、藩主、教師、生徒それぞれの心得が描かれている。藩主への回答だから生徒の心得は「生徒はまじめに勉強するだけ」と簡潔だ。

 細井平洲は尾張国知多郡平島村(現愛知県東海市)に生まれ、江戸で私塾を開いていた。平洲が両国橋のたもとで説教する姿を目にしたのが、米沢藩江戸屋敷にいた侍医・藁科松伯(わらしなしょうはく・1737〜1769年)だ。鷹山の教師にと懇願した。
 教師となった平洲から、鷹山は藩主としての心得を学んだ。「白紙に文字を書くように吸収した」と伝えられる。正に「学則」の精神の実践だった。
 米沢藩主になってからも「藩主は民の父母」という平洲の言葉を肝に銘じて生涯を通すなど、平洲の教えを忠実に実践した。危機的な財政状況の中で新たな産業を興し、財政再建を果たした。鷹山の藩政は「人づくりは国づくり」という平洲の教えを土台にした長期改革だった。
 米沢市関根の普門院に「一字一涙」と刻まれた石碑がある。46歳の鷹山は1796年に70歳となる平洲の3度目の米沢来訪の際、普門院で行列を組んで師を迎えた。平洲はその時の感動を門人あての手紙に書き残した。それを読んだ藩士が「一字一涙」と表現した。師を敬い、礼をつくして迎える鷹山の姿は、「学則」にある教師と生徒の姿そのものだった。

 改めて上杉鷹山の偉業を学ぶ機運が広がっている。鷹山は財政再建の名君として取り上げられるが、産業振興と人材育成を2本柱に藩の改革を進めた。中でも人材育成にかける熱意は並々ならぬものがあったとされる。鷹山が後世に残した教育の精神とは何か。米沢市内の学校と偉人の足跡をたどりながら考えた。

【佐藤良一・S52卒】
第2回 相手に寄り添う心―校歌3番と浜田広介―につづく

4月8日毎日新聞山形版