藩校興譲館、米沢中学、米沢一高、米沢西高、米沢興譲館高と続く米沢興譲館同窓会公式サイト

ホームページロゴ

 

先人も願った病気収束・南陽・高岡さん方の古文書・今と重なる江戸期の姿
(2021年4月14日山形新聞より)


左のページに、はやりかぜで宮内村の住人が日々命を落としている深刻な状況が記されている(写真左)
高岡家に代々伝わる古文書「年代記」。表紙に文政十三年の記述が読み取れる。(写真右)

 南陽文化懇話会事務局長で南陽市議の高岡亮一さん(73・S41卒)=同市宮内=方に江戸時代から伝わる古文書「年代記」がある。1834(天保5)年、はやり病で死者が毎日のように出たため、住民が地域の神様にすがってきた様子が記され、地元の話題となっている。信仰心は現代まで受け継がれており、住民らは現代と重ね合わせ、コロナ禍のいち早い収束を願っている。

 年代記は、高岡家5代の栄次郎から8代栄四郎まで、1830(文政13)年から1907(明治40)年までの間に書かれた。一家庭の文書ではあるものの、当時の宮内村近辺の稲の実り具合や農作物の価格、はやり病、自然災害、火事についても記されており、南陽市史にも取り上げられている。東北芸術工科大の古文書調査会が価値を認め、今後の保存のために2011年から8年がかりで製本化した。

 年代記によると、1834年6月に「毎日ねつ病ニて 一人り二人りツ、死ス(中略)八日ニ町へ おしゝさま出ル」(原文のまま)との記載がある。12代の亮一さんによると、熊野大社の例大祭は当時6月15日で、通常であれば8日に「おししさま」に参拝することはできなかった。「切実さと恐怖から神様にすがらなくてはならないほど深刻な状況だったのだろう。コロナ禍の昨今でも住民から『おししさまに出てもらおう』との意見が出るなど、その信仰心は現代にも引き継がれている」と分析する。

 製本化を主導した同大の竹原万雄准教授は年代記について、「江戸・明治期の人々の生活をリアルに想像することができる貴重な資料だ」としている。