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北部小に残る大正期の測距儀・奉安庫の備品と判明
当時の校長 岡田啓介海軍大臣に依頼
(2021年3月24日山形新聞より)


北部小学校所蔵の測距儀

 米沢市北部小(佐藤哲校長・S57卒)の旧校舎から発見された大正時代製造の測距儀について、1928(昭和3)年に同校が当時の海軍大臣に依頼して譲り受けていたことが分かった。16日付の山形新聞記事を読んだ東京在住の作家が調査・確認し、同日のうちに学校に連絡した。天皇と皇后の写真(御真影)を納める奉安庫の備え付け品として要望したことなどが、旧海軍の記録として残っていた。

 関係する文書は、28年12月20日付の「廃兵器無償下付願」など。差出人は同校の第三代校長香坂忠美で、宛先は後に首相も務めた岡田啓介海軍大臣となっている。奉安庫の柵や備え付けの記念品にするとして、鎖(36メートル以内)、弾丸(徹甲弾11個)、観測鏡(1個)と、同校で見つかったものと同型の「四年式一米半測距儀」(1組)を要望している。わずか4日後の同月24日付の軍内部の文書では、横須賀鎮守府に対して無償下付を取り計らうよう訓令し、同日付で海軍省が香坂校長に無償下付の通知を出している。


海軍から米沢市北部小に測距儀が譲られた経緯などを示した文書(防衛研究所戦史研究センター所蔵)

 この文書は防衛省防衛研究所戦史研究センターが所蔵し、国立公文書館アジア歴史資料センターがホームページで一般公開している。近代陸海軍史などに詳しい作家の有馬桓次郎さん(東京)はインターネットで山形新聞記事を読み、すぐに同センターのホームページ内で資料を発見。同小に連絡を入れた。

 同校には測距儀の記録はなかったが、奉安庫については残っていた。28年には地元の寄付で奉安庫を新しくしており、「下付願」を出す直前の10月には御真影を「奉戴」したことが記録されている。現存しない奉安庫の廃止に関する記録はなかったが、米沢市史によると、市内各学校の奉安殿(庫)は進駐軍の命で46年4月までには撤去されたという。

 有馬さんによると、軍で使われた鎖や弾丸を奉安庫の柵として、兵器を庫内に一緒に納めることは一般的なことという。一方で、多くの場合は陸軍の兵器を使っており「内陸の米沢で海軍の兵器が使われているのは、海軍の提督を多く輩出していることと関係していると考えて良いだろう」と考察している。佐藤校長は「米沢出身の提督が譲り渡しの調整をしたのだろうか。謎は尽きないが、経緯が分かってうれしい」と話している。