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西尾市(愛知県)と「上杉吉良交流会」活動10年・縁を大切に、冊子制作
(2021年1月10日山形新聞より)


米沢・上杉吉良温故交流会の10年間の活動を振り返る種村信次会長(中央・S33卒)ら
=米沢市・上杉家御廟所

 「忠臣蔵」はあくまで創作・上野介、本当の姿を

 創作「忠臣蔵」の題材として知られる「元禄赤穂事件」の被害者、吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)縁の愛知県西尾市(旧吉良町)と交流する米沢市の「米沢・上杉吉良温故交流会」(種村信次会長・S33卒)が昨年、設立10年を迎えた。“悪役”のイメージが強い義央の本当の姿を知ってもらおうと、吉良家と深い縁で結ばれる米沢で活動を続け、10周年の記念冊子も制作。会員たちは「これからも両市の交流を重層に続けたい」と話す。

 米沢藩上杉家と吉良家の間には「三姫(富子)」「綱憲」「義周」の“三重の縁”があったとされる。2代藩主定勝の娘三姫が義央に嫁いだ後、夫妻の長男が末期養子として上杉家に入り、4代藩主綱憲となった。綱憲の次男は義周として義央の養子になり、互いにお家断絶を防いだ。また、綱憲以後、高鍋藩秋月家から養子になった9代藩主鷹山を含む代々の米沢藩主は、義央の血を引いている。

 交流会の設立は2010年9月。翌年に西尾市との合併を控えていた吉良町側の熱心な働き掛けもあり、設立と同時に両地域の交流団体が親善交流盟約を締結した。義央は吉良町では名君として厚く敬われ、毎年、赤穂浪人が吉良邸に乱入した12月14日には「毎歳忌」を営んでいる。両地域の会員は、毎歳忌や上杉まつりなどの際に相互に訪問し、交流を深めてきた。

 江戸時代には、米沢では忠臣蔵の上演が規制されたと伝わる。だが、種村会長(81・S33卒)も交流会設立の動きが始まる前は、創作のイメージが強かったという。考えを大きく変えたのは、設立前年の09年に吉良町を訪れた時だった。


米沢上杉家と吉良家の関係を示す系図などを載せた「10年のあゆみ」

 上杉家から吉良家に入った義周を描いた演劇「もう一つの忠臣蔵」を見て衝撃を受けた。17歳で義父を殺され、21歳で亡くなった義周の姿に「これを米沢で上演したい」との思いを強く持った。上演は交流会が発足した10年に実現。以後、吉良家ゆかりの地域が集まる「吉良サミット」や講演会の開催などを続け、創作のイメージとは違う史実を米沢市民に伝えている。

 10周年の昨年も記念講演会などを予定していたが、新型コロナウイルス感染症の影響で記念冊子制作以外の事業は中止になった。種村会長は「一つのことが頭に入ると、それで済ませてしまうことが多いが、実は違うということもあると思い知らされる」と活動を振り返る。昨年末は設立以来初めて毎歳忌への参列はならなかったが、「吉良の人たちの米沢への思いは強い。これからも交流をさらに深めたい」としている。

 冊子は300部を制作し、関係者などに配布した。交流会に関する問い合わせは上杉家管理事務所内の事務局0238(23)3115。

 ■記者の目 冷静な分析不可欠

 娯楽として楽しむのならともかく、現実を生きた人物を善悪に分けるのは非常に危ういことだとあらためて思い知らされた。対立する両者は何を考えてどう行動したのか。お互いに思いやりを持って冷静に分析することは、今の社会を見る時にも必要なことだと思う。