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豪農宅歴訪伝承裏付け・山浦玄蕃の「こて絵欄間」高畠でも発見
(2020年8月22日山形新聞より)


山浦玄蕃の作品とみられる欄間=高畠町

 米沢藩上杉家と縁があり、キリシタン殉職した山浦玄蕃が描いたとされる宗教色を含んだ「こて絵欄間」が米沢市田沢地区で見つかった件に絡み、同じく玄蕃が描いたとみられる「こて絵欄間」が高畠町の和田民俗資料館で見つかった。作風が酷似しており、同様に宗教的要素が盛り込まれている。関係者は「玄蕃が領内の豪農宅を訪ね歩き、作品を残したとの言い伝えを裏付ける発見だ」と分析している。

 他の古民家にも可能性

 田沢郷土誌編集委員会の清野春樹さん(71・S43卒)によると、見つかった欄間がある建物は元々、米沢市六郷町にあった古民家で、約50年前、この地に移築されたという。田沢地区で玄蕃作とみられる作品が見つかったという7月3日付の山形新聞報道がきっかけで、「うちにも同じ欄間があり、ほかにも高畠町の資料館にある」と、同市内の住民から情報提供があった。

 和田民俗資料館で見つかった欄間は計5枚。うち2枚は中国の故事をモチーフに「仙人が剣に乗って波を渡る」など、田沢地区で見つかったものと同じ図柄だった。残り3枚のうち2枚は漁師(恵比寿天)、魚、大黒天の打ち出の小槌から出た三つの宝珠などが、「イエスキリスト」「三位一体」などを示しているという。

 現場はキリスト教を信仰していると幕府に密告された後、領内の豪農宅にかくまわれた。丁重に扱われたが、それが元で豪農側は負担になったとみられるエピソードもあり、「領内のほかの豪農を訪ね歩いてみては」と促す場面もあったとされる。「訪ね先では作品を残していた」との言い伝えがあり、清野さんは「他の古民家にも残っている可能性がある」と指摘している。

 玄蕃は江戸時代のキリスト教徒に対する迫害を逃れるため、1635(寛永12)年、妻子を伴って京都から米沢に移り住んだ。元は公家の子で、上席家老に就き、断絶していた上杉一門の山浦家を継いだ。最後は幕府から斬首を命じられ、極楽寺で処刑された。

 ※上杉家ゆかり・キリシタン・山浦玄蕃の「こて絵欄間」発見(2020年7月3日山形新聞)