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雲井龍雄を顕彰へ銅像計画・米沢市民有志がNPO寄付呼びかけ
(2019年6月1日朝日新聞より)


雲井龍雄シンポジウムのチラシを持つ屋代久理事長(左・S47卒)ら=米沢市役所

 「権力におもねらない生き方知って」

 戊辰戦争に際し、薩摩藩を批判した漢詩「討薩檄(とうさつのげき)」を記した幕末の志士で米沢藩士の雲井龍雄。雲井を顕彰する銅像建立を目指し、米沢市の市民有志がNPOを設立し、寄付を呼び掛けている。16日には生涯や思想などを紹介するシンポジウムも開催、「権威や権力におもねらず、自分一人でも行動を起こす雲井の生き方を広く知って欲しい」と呼び掛けている。

 雲井は1844(天保15)年に下級藩士の次男として生まれた。幼いころから勉学にすぐれ、親族の小島家の養子になり、本名は小島守善、通称。龍三郎。幕末の混乱期、米沢藩邸で警備にあたる一方で、儒学者安井息軒の塾で学び、日本の将来を真剣に考えたという。

 その後、京都で藩の探索係になり、徳川幕府の大政奉還にも賛成する立場で活動した。奉還後の「薩摩藩の横暴」に反発、戊辰戦争中は米沢藩も加わった奥羽越列藩同盟の士気を鼓舞するために「討薩檄」を作った。薩摩藩に対する強い憤りが伝わる。

 戊辰戦争後は米沢藩の推薦を受け、新政府の組織の一員になるが、戦争中の言動もあり、すぐに退職。新政府に不満を持つ人々のための組織を結成したところ、新政府の転覆を企てたとされ、1870年に処刑された。都内に埋葬されたが、1930年、当時の米沢市民らにより市内の常安寺に改葬された。現在、市民有志が毎年、墓前祭を開いている。藤沢周平は「雲奔る」で雲井の波乱に富んだ生涯を描いている。

 NPOは「雲井龍雄顕彰会」。昨年8月、雲井の母親の子孫にあたる屋代久理事長(S47卒)ら、市民有志が設立。常安寺に雲井の銅像を建てるのが第一の目標だ。顕彰会は「王政復古に尽力した経歴もあり、要領よく生きれば新政府でそれなりの立場につけた。会津藩の受難を座視できず、傍観することを拒み、最後まで節義を屈することがなかった」と説明。「義人の名にふさわしい人物で、語り継がれるべき人物だ」という。

 銅像はほぼ等身大の1.5メートル程度の大きさで計画、福島大学の新井浩教授に依頼する予定。雲井が処刑されたのは旧暦の1870年12月末で、新暦では71年の2月ごろにあたることから、「没後150年」という2021年夏の完成を目指す、制作に約700万円かかる見込みで、台座代などもあり、寄付の目標は1000万円。

 シンポジウムは16日に同市の伝国の杜で開催。郷土史家や新井浩教授らが講演する。入場料500円。寄付とシンポジウムの問い合わせは、屋代理事長(090-3366-6982)へ。