全国高校野球 夏空の球音・山形大会100回・全国に挑む・東北大会決勝で県勢対決
(2018年7月8日山形新聞より)
県勢初の甲子園出場を懸けた山形中(現山形東高)−米沢興譲館中(現米沢興譲館高)の決戦を伝える1936年8月5日付の山形新聞
「甲子園生きの雌雄を決する待望の一戦」−。1936(昭和11)年8月4日、第22回全国中学優勝野球(現全国高校野球選手権)の東北大会決勝は、山形中(現山形東高)−米沢興譲館中(現米沢興譲館高)の県勢同士の顔合わせとなった。どちらが勝っても本県初の甲子園出場が決まる大一番を、当時の山形新聞は「地元同志の決戦」との見出しで伝えた。
甲子園出場をかけた予選に県勢が参加したのは、19(大正8)年に行われた第5回大会に出た荘内中(現鶴岡南高)が初めてだった。それから実に17年。県民悲願の瞬間に立ち会おうと、会場は試合前から対決を待ちわびた観客であふれ、その熱狂ぶりは、警官が群衆整理に駆り出されるほどだった。本誌も「火の出るような熱戦が展開され(中略)追ひつ追はれつ鎬を削つて戦つた」と、当時の盛況ぶりを伝えている。
県大会決勝と同カードとなった大一番は、雪辱を誓った山形中が四回に2点を先制し、主導権を握った。5点リードで迎えた九回裏、1死満塁のピンチから直後に2点を奪われると、次打者が放った打球は外野へ飛んだ。中堅手が柵際で好捕し、7‐4で逃げ切った。翌日の紙面には「勝つた!山中が勝つた!」との見出しが躍った。本県球史に新たな歴史が刻まれた。
県勢初の甲子園で山形中は千葉中(千葉・現千葉高)と対戦し、1‐8と完敗。ほろ苦い船出となった。山形中は4年連続で甲子園の土を踏むも、県勢が初めて夏の1勝を挙げるのは30年以上先の話。日大山形の活躍まで待たなければならなかった。