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全国高校野球 夏空の球音・山形大会100回・円熟の皆川 甲子園踏めず
(2018年7月5日山形新聞より)


プロ通算221勝の皆川睦雄(米沢西=現米沢興譲館高出)は山形県大会で2連覇したが、東北大会で敗れ甲子園には届かなかった。(写真は南海時代)=1970年

 第100回の節目を迎える全国高校野球選手権山形大会(12日開幕)は、1世紀にわたり幾多のドラマを生んできた。記憶に残る名選手や感動の名勝負、全国に挑み続ける県勢の歴史など、その軌跡を振り返る。

 プロ通算221勝を挙げ、県人で初めて野球殿堂入りした皆川睦雄(米沢西=現米沢興譲館出)は、1951(昭和26)年の第33回大会から3年連続で山形大会の決勝に進出した。1年時(校名は米沢)は決勝で鶴岡工に2-4で敗退したが、2年時は山形東を5―2で破って東北大会の切符をつかんだ。優勝校のみ甲子園に出場できる東北大会は初戦で敗れている。

 53年の3年時は東北大会決勝まで進んだが、白石(宮城)に0―4で敗れた。後に南海(現ソフトバンク)に進む名投手も、高校時代は甲子園の土を踏むことができなかった。山形新聞は同年8月5日付朝刊で「米西、甲子園の夢破る」の見出しで結果を伝え、「山形県高校野球六十年史」(県高校野球連盟)は、快進撃を続けた米西について「円熟の境に達した投手皆川を主将とする文字通り県下随一のチーム」と評している。

 皆川の一年後輩に当たるのが、元南海投手の田沢芳夫(鶴岡工出)と巨人・南海で投げ新庄市長も務めた高橋栄一郎(新庄北出)だ。ライバル関係にもあった両エースは54年の第36回大会2回戦で対戦した。「事実上の決勝戦」と目された一戦は延長十二回、7―4で鶴工に軍配が上がった。鶴工は山形大会も制し、東北大会の決勝まで勝ち進んだ。

 捕手として東映・日拓(現日本ハム)などで活躍した小山田健一(日大山形出)は、68年の第50回大会で甲子園に出場した。初戦の二回戦で岩国商(山口)と対戦。小山田は強肩で二盗を阻むなど活躍したがワンチャンスをものにされ、0-1で接戦を落とした。

7月5日山形新聞