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人の夢に、全力 フェンシング、五輪に二度出場 池田めぐみ選手(県体協・H10卒)引退会見 
乳がん告白 競技人生「悔いなし」 (2011年12月13日山形新聞)

池田めぐみ選手
病名を明かし、現役引退について語る池田めぐみ選手(県体育協会・H10卒)=山形市・県スポーツ会館

 アテネ・北京両五輪のフェンシング・エペ日本代表で、体調を崩して現役引退を表明していた池田めぐみさん(32・H10卒)=県体育協会=が12日、山形市の県スポーツ会館で記者会見をし、乳がんを患っていたことを告白した。既に手術し快方に向かっているものの、リンパ節を切除したことなどから競技を断念したと説明。来年のロンドン五輪出場の夢はついえたが、培った経験を今後のスポーツ界に伝え「これからは人の夢を支えることに全力で頑張りたい」と前を向いた。

 今年7月、日本代表として臨んだ韓国でのアジア選手権の際、体調の異変に気付いた。帰国後に受診し「がん」と宣告された。翌8月に県内の医療機関で手術。その後の経過は良好だが、「半年間は過度の運動をしないように」と言われ、悩んだ末に引退を決意した。病名公表については、「それが良いことなのか、今でもわからない」と正直に胸の内を明かし、それでも「後々、良かったと思える人生を歩みたい」と踏み切った。
 世界を舞台に戦ってきた。2006年のワールドカップ(W杯)で準優勝し、2度目の五輪となった08年北京大会では、日本勢として過去最高の15位。去年の広州アジア大会の女子団体決勝では、強豪・中国相手に1−1の場面で登場。同種目初の金メダルを手繰り寄せた。日本フェンシング協会選手強化本部の江村宏二GMは「大舞台で活躍できる力があり、努力してきたぶれない選手」と話し、アジア大会ではリーダーとしてチームを引っ張ったと説明。ロンドン五輪は池田選手を含むメンバーで考えていたといい、「協会としてもダメージは大きい」。
 米沢興譲館高で競技と出会い17年間。幾度も苦難を克服してきた。大学生だった1999年に右膝靱帯(じんたい)を断裂。06年には左膝靱帯が悲鳴を上げたが、「乗り越えられるからこそ試練がある、その先に何があるのか見てみたい」と、強くなることを追求し続けた。その先にあったのが2度の五輪。いつ引退してもいい―。そういう信念で競技と向き合ってきた。
 「引退」を口にする際は言葉を詰まらせたが、「やりきって、やれるだけやって、後悔はありません」ときっぱり語った。
 今後については「培ってきたことを子どもたち、山形の人たちに伝えたい」。未来の日本代表を発掘・育成する県スポーツタレント発掘事業の実行委員を務めており、「未来の子どもたちに関わっている。経験をどう生かせるのかを考え、活動していきたい」と続けた。

 

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12月13日山形新聞