貫いた誇りを胸に・遠藤英さん(S60卒) (2009年10月14日山形新聞掲載記事)
直江兼続が菅沢山に構えた本陣跡地にて。
正面奥に長谷堂の城山を見据える。=山形市菅沢=
1600年(慶長5)年、徳川家康は東日本一円に上杉包囲網を形成し、上杉討伐軍を編成して東進を開始した。上杉家は2年前に豊臣秀吉により、家康の背後を固めて最上・伊達を会津・米沢に移されていた。上杉景勝は関東・東北・北陸の大名諸将に働きかけ、包囲網の切り崩しを図る。家康から上杉の背後を任された最上義光にさえも、和平交渉を試みたとされる。
戦国大名はみな経営者であり政治家である。家臣や領民の生活と安全を保障し、お家の存続と繁栄のために最善を尽くす。そこに経営目標や経営理念が加わり、多くの人を巻き込んでいく。
義光の場合は、上杉領の庄内酒田を手に入れれば最上川から海に出て京・大坂と結び付き、最上領が繁栄する。伊達政宗も上杉を破ればあらためて東北の覇者となることができる。家康は言うまでもなく天下取りの目標に向けて動いている。
秀吉への恩義を忘れない上杉は、家康になびくことを善しとせず、対決して生き延びようと決断した。この選択は、謙信以来の理念を重んじる上杉家臣団の総意でもあった。
ところが徳川軍は、直江兼続率いる上杉軍との衝突を避け、石田三成との勝負を選び転進する。兼続は、関東・東北鎮定という豊臣政権下における上杉家の任務を果たすため、徳川・伊達を睨みつつ、その矛先を上杉領庄内を攻める最上義光に向けた。
義光は危機に陥った。上杉120万石の大軍が最上24万石に攻めかかってくる。義光は政宗に援軍を要請し、支城を棄てて長谷堂城に兵を集めた。しかし畑谷城主江口光清は敵前で引くことを拒み、兼続からの誘いも断り、畑谷城にとどまった。兼続率いる上杉本隊は荒砥城を出発し、萩野中山口から畑谷城に迫る。2万余の軍勢が攻め、隣接する山から鉄砲を撃ち掛け、畑谷城は4時間で陥落。兼続は翌9月14日、山形城を横目に南下し、長谷堂城を正面に見据えて菅沢山に布陣したが、それから半月、直江本陣を見下ろし天然の要害を味方につけた城山に有効な攻撃を加えることはできなかった。それでも兼続は、2万の大軍を二手に分けて一方でこの小さな城山を封じ本隊が山形城を攻める、とはしなかった。義光も水から打って出て長谷堂城に釘付けの直江本陣を攻めたりはしない。援軍伊達正景も戦場から遠く構えて手を出さない。彼らはみな関ヶ原の戦況の正確な報せを待っていたのだ。天下分け目の関ヶ原、勝者が天下の覇者になる。勝者の側に立つ者を叩いてしまえば潰される。大将自ら相手方の本陣を攻めてしまえば言い逃れは出来ない。
30日徳川勝利の報せが入る。義光は自ら陣頭に立ち上杉軍に攻め込んだ。兼続は即時撤退を始めるが、随所で激戦となり、上杉軍1500余、最上軍600余が討ち死にした。上杉軍は最上軍の砦となる寺を焼きつつ後退し、占領した長岡楯で夜を明かし、翌10月1日、追い迫る最上軍の頭上に富神山中腹から鉄砲を一斉射撃、前田慶次が槍を奮って突入し、義光は命を落としかけた。翌日も鉄砲隊を駆使して最上軍を退け、兼続は上杉軍の大部隊を小滝街道へと無事に逃がし、自らも最上軍の侵攻がないことを確認し米沢城に帰還した。
これら一連の戦は歴史に何を残したか。家康は、上杉討伐軍に東北の大名たちまで動員し全国の大名統制の基盤を築いた。ついで関ヶ原の戦いを通じて家康への忠義を見極め、江戸幕藩体制の礎が固まる。これらの軍事動員で、家康は政治面でも勝利を収めた。最上義光も念願の庄内を与えられ、最上57万石の全盛期を迎える。
しかし上杉景勝も敗者となったわけではない。兼続は、これらは自分の「私戦」であり景勝には責がないと主張し、兼続と親交の深い徳川四天王本多正信も奔走し、上杉家は米沢30万石への減封で済まされた。上杉家の家臣たちは、家康を向こうに回して自分たちの理念を貫き堂々と生き延びたことを誇りに思い、景勝・兼続のもとで経営難に陥った上杉家をよく守り存続させたのである。
遠藤英(えんどうえい)さんは1966年米沢市生まれ。東北大文学部史学科卒。米沢市景観形成委員。
著書に「直江兼続の素顔」「直江兼続物語 米沢二十年の軌跡」「直江兼続がつくったまち米沢を歩く」。