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直江兼続素顔に迫る 清水や庵、米沢に史跡 米沢前田慶次の会会長 梅津幸保さん(S39卒)
2009年8月26日山形新聞掲載記事

梅津幸保さん

 

□うめつ・ゆきやす氏は1944年米沢市生まれ。米沢興譲館高、山形大工業短大卒。米沢市役所に勤務し、企画課長、市立米沢図書館長などを歴任。2005年定年退職。米沢市万世町梓山に伝わる梓山上組獅子踊の保存会長、米沢藩古式砲術保存会副会長、置賜民俗学会員などを務める。著書に「草木塔を訪ねる」「万世梓山獅子踊―復興200年記念誌」ほか。


 直江兼続の盟友に前田慶次がいる。生没不明であるが戦国武将として名をはせ、かぶき者としても有名である。
 名古屋の荒子城主・前田利久の養子として武将滝川一益の一族から前田家に入ったといわれている。慶次は前田家を継ぐ立場にあったが、1567(永禄10)年、織田信長が利久の弟・利家に家督を譲るよう命じた。ここで利久慶次親子は荒子城を追放されることになる。養父利久が没した後の1590(天正18)年、慶次は前田家を出奔する。
 慶次が上杉家に仕官したのは1598(慶長3)年9月15日、関ヶ原の合戦で、直江の朋友・石田三成率いる西軍は、徳川家康率いる東軍に敗れた。この報を聞き兼続は自刃を覚悟したという。そのとき「こんなところで犬死するものでない。味方を撤退してくれわしが敵を追い返す」と慶次が大奮戦し、直江を救ったといわれている。この年兼続は40歳。景勝は45歳である。
 このときの慶次の年齢を没年から推定してみよう。米沢に伝わる説では慶次は1612(慶長17)年6月4日70歳前後で没した。一方前田利家がのちに領主となった加賀(現在の石川県)に伝わる説では1605(慶長10)年11月9日73歳で没したという。従って長谷堂合戦当時の慶次の年齢は、米沢説では58歳、加賀説では68歳となる。馬上疾駆活躍した事を考えれば、米沢説が妥当と思われる。
 関ヶ原の敗北により1601(慶長6)年8月、上杉家は家康から米沢30万石に減封を命じられる。景勝兼続主従は10月14日屋敷のあった京都をたち米沢に向かう。慶次は10月24日京都をたち、11月19日米沢に着く。この道中記が市立米沢図書館にある。日記には40編ほどの漢詩や和歌が詠まれており、漢籍をよくし、和歌や連歌に通じ、地理に詳しい慶次の文化人ぶりがうかがわれると評されている。
 旅立ち初日は「誰一人浮世の旅をのがるべきのぼれば下る逢坂の関」(東国に下るにも都に上るにも必ず越えなければならないこの逢坂の関を通っていると、浮世の旅、つまりつらい人生を逃れることのできる人は誰一人としていないとの実感がわく)と詠んでいる。また米沢についた嬉しさを、中国の詩人陶淵明の詩「帰去来の辞」に託して「乃瞻衡宇 載欣載奔」(すなわち屋敷を遠望して、すなわち喜びすなわち走る)と記している。

慶次清水
前田慶次が生活用水として使ったといわれる「慶次清水」=米沢市万世町堂森


 慶次は米沢城下から1里ほど離れた郊外・堂森の無苦庵に住み、花鳥風月を愛で、里人と楽しく暮らしたという。生活用水として利用したといわれる慶次清水や、無苦庵跡、堂森山山頂の月見平などの史跡が残っている。ほかにも生活雑器やお面、槍をはじめ、武具や甲冑、分限帳や自筆の短冊ほか関連文書類も残る。
 この米沢地方に慶次の史跡や遺品が多くあるということは、この地に長く暮らした証拠でもあろう。慶次は郊外の堂森で亡くなった後、城下北寺町の一花院に葬られたと伝えられている。命の恩人である慶次を兼続が丁重に葬ったことを物語っているように思う。
 1980(昭和55)年に堂森の善光寺境内に前田慶次供養塔が建立された。碑文には「この地に今も慶次は生きている」と刻まれている。戦国時代に、自由奔放に生きているが、強きをくじき弱きを助ける心でいたずらに見せながらも人を諭し、心を改めさせる人間味あふれる逸話は痛快である。例えば、肝煎りの新宅祝いで、床柱にわざと斧で傷つけて、満つれば欠ける満月の話をして世の常を諭した。また、町の無頼漢の鼻毛を買うことにしたが、約束の時期になっても成長しないので、施肥として黄金水(糞尿)をかけて懲らしめた、などのエピソードがある。全国の慶次ファンが400年前に慶次が過ごした自然の中に身を置き、その思いに浸っている。

8月26日山形新聞