藩校興譲館、米沢中学、米沢一高、米沢西高、米沢興譲館高と続く米沢興譲館同窓会公式サイト

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興譲館精神Part4

人の日本人 無教会派のキリスト者としてわが国キリスト教界に有名な存在であった内村鑑三氏は、「代表的日本人」という書物を書いた。
内村氏はこの書の中に日本が生み日本が育てた人々のうちで、世界に誇るに足る代表的日本人として五人の人をあげたのである。
その中に上杉鷹山公を第一にあげた。
不覊のキリスト教信者であり、すべてを世界的視野の上に立って考え、己の信念を枉げて他と妥協することを決してしなかった内村鑑三氏は、あらゆる思慕と尊敬の念をもってわが鷹山公を代表的日本人の一人にあげたのである。
鷹山公が決して米沢の、米沢だけの鷹山公ではなく、世界的存在としての鷹山公であることを、米沢とは格別な関係をもたぬ内村鑑三氏が指摘したことは、興譲の流をくむわれわれとして深く考えるべきことであろう。
いつの時代、なにの世であろうとも、真実の人間は常に真実の人間である。世は推移する。
封建時代とか資本主義時代とかまたは共産主義の社会とかいう。
しかしながら人間が時代とともになにからなにまで変わるのでは決してない。
万葉の歌人の歌が惻々としてわれらの胸をうつのも、人間としてのかわらぬ生命が流れているからである。
鷹山公が生涯をかけてなされた事業の背後にある公の真実の精神は、千古を経ても決して古くなることのない不滅の精神である。
不幸にして太平洋戦争がおきた。
惜しむべき有為の青年が、母の名を呼びつゝ戦場に散った。
かれら有為の青年はなにを求め、なにを悲しみ、なにを怒ったのであろうか。
これら純真な青年たちの死を無にしてよいものであろうか。これはいたましい現実である。
われらはこのいたましい現実の中に興譲館の精神を見る。
生命を愛してやまなかった鷹山公の精神を見る。
わが子すら満足に育て得なかったほどに困窮した藩民の声から、いたましくもわたつみの声を聞かれたのである。
真実に終始された鷹山公のご精神は、人の世を人がつくるかぎりつゞく精神であるとともに、わが米沢をこえて世界に通ずる精神であろう。
われらは興譲の精神をだれかに向かって誇ろうとは思わぬ。
またこの精神をだれかに強いようとも思わぬ。
たゞわれらはこの精神が人々のもつさまざまな立場や主義や人生観をこえて、永遠なるものとしてこれを信じこれをまもろうと思うものである。        

「開校七十年誌」


【ここに掲げる「興譲館精神」は、第十七代並びに第十九代の校長千喜良英之助が、本校七十周年を迎えるにあたり、当時の教頭奥山政雄と相諮り、興譲館精神の何たるかを、戦後の学生に説くべく、鋭意想を練り、千古不抜の精神の何ものかを孜々探究し、人の世を人が作りゆく限り続くその源流がある、とつきつめたとき、奥山教頭が千喜良校長の信条を体して執筆したものである。
「藩校興譲館創立二百年 山形県立米沢興譲館高等学校創立九十年  興譲館のあゆみ」 】
と記載されている。本文に署名はないが奥山教頭が書いたと推察される。後日、本文を書いたのかを問われた時、本人は肯定も否定もしていないという。

1954年9月19日 創立記念日の同窓会総会で校名変更の議が上程され満場一致で県当局への陳情の議が決定
1956年4月 山形県立米沢興譲館高等学校と改称
1956年9月19日 創立七十周年記念式典挙行
新校歌(作詞浜田広介 作曲細谷一郎)、校旗制定
1956年9月30日 校長千喜良英之助退職