藩校興譲館、米沢中学、米沢一高、米沢西高、米沢興譲館高と続く米沢興譲館同窓会公式サイト

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30年を2時間半で・伊藤 均さん(七七会還暦記念誌より)

 先日、森山良子のコンサートのDVDを観ました。2時間ほどにまとめたものでしたが、ジャズ、歌謡曲、叙情歌からお得意のカレッジフォークに、息子:直太郎の楽曲まで含め幅広いレパートリーをエネルギッシュにこなしていました。彼女も一昨年還暦を迎えたそうです。高校生ながら『この広い野原いっぱい』でデビューし、我々が受験勉強の友として聴いていた深夜放送で毎晩歌声が流れていた可憐な少女も、最近はコテコテしてきたなあ〜などと私はつぶやいたのですが、「あんたに言われたくないワ」という声がスクリーンから返ってきそうで首をすくめました。森山良子のヒット曲には、最近であれば『なだそうそう』などがありますし、長く歌い継いでいる曲に、寺島尚彦作詞作曲の反戦フォークソング『さとうきび畑』があります。私が最初に『さとうきび畑』を聞いたのは、就職してすぐの昭和45年頃でしたが、ラジオでさえフルコーラス流されることが少ない、12分ぐらいかかる長い曲なのです。ごく最近になって、FMなどの音楽番組やテレビでも、フルコーラスを放送する機会が増えたので、これも文化の成熟や進歩だとしたら嬉しいことだなと感じて聴き入っています。
 また森山良子のレパートリーには、ミュージカルのような曲もあります。『30年を2時間半で』という曲で、バツイチの女性がデパ地下の食品売り場で、昔付き合った男性とばったり出会い、お茶やお酒を飲んで、お互いの存在を確かめ合っているうちに過ぎ去った30年がたちまちよみがえるという、嬉しくもちょっぴり切ないストーリーの歌です。このような曲を聴いていると、あっという間にタイムスリップし、私達を懐かしい時間旅行に連れ出してくれますね。30〜40年前といえば、東海道新幹線の開業、東京オリンピック開催、高速道路や高層ビル建設に沸き、大阪万博などで花開いた日本全体が高度経済成長期のさなかにあったので、様々な分野で元気だった昭和40年代を思い出す方も多いのではないでしょうか。今回の七七会還暦記念誌へ、私は彼女の曲にリードされながら投稿の筆を執りました。

 【新潟地震,旗手,吾妻登山】
 昭和39年興譲館に入学してすぐの頃、生物の授業に入る前に高梨克己先生が面白い話をして下さいました。向こうから歩いてくる生徒を見ると何学年かすぐわかるとおっしゃるのです。1学年は天真爛漫、今日も日本晴れ。空を見上げて歩いて来るそうです。2学年になると視線が水平になって少しは自分の進路を考えるようになり、3学年ともなると受験で一杯になって、周りのことなど構っておられず我が爪先だけを見つめて下向きで歩くので、遠目にもわかるのだとのことでした。肝心の生物の授業内容はすっかり忘れてしまいましたが、このような例え話は忘れずに覚えているものですね。
 そして6月、確か午後の漢文の授業が始まろうとしていた時だったと思いますが、昼寝の夢路に入りつつあった私の椅子をガタガタ揺する者がいるのです。私はてっきり後ろの席の生徒が悪戯しているのだと思い、「おい、やめろよ」と言いつつ振り返ろうとした瞬間、確かに不気味な地鳴りを耳にしました。地鳴りは瞬間的に大きくなり、直後、もの凄い縦揺れに襲われたのです。後の報道でマグニチュード7.5と聞いた新潟地震でした。窓の外の松ノ木も枝が激しく揺れ、私達の教室の南側棟のレンガ煙突が折れて落下していくのが見えました。その後も何度か激しい地震には遭遇しましたが、やはり新潟地震は一番印象深く覚えています。
 ここで写真1と2を並べます。モノクロの1枚は、興譲館の教師で英語を担当していた私の父:伊藤正道が、同僚で数学の教師だった岩槻先生に撮って頂いたスナップとのことです。父の足元にはコンクリート歩道も無く、昭和30年代中頃の、西体育館が建つ直前の撮影と思われます。もう1枚のカラー写真は『さよなら旧校舎』と題した昭和62年の創立101周年記念興譲館同窓会に参加した私が撮影したものです。この2枚は写真整理でたまたま気付いたのですが、アングルがほとんど同じですね。そして父の後ろに写っている校舎の煙突は、しっかりてっぺんまで立っています。カラー写真のほうは煙突の根元に新潟地震で落下した煙突頭部の残骸が処理もされずに転がっています。偶然とはいえ写真が語る歴史の一面ですね。

伊藤正道

写真1:興譲館・英語の教員、伊藤正道
昭和30年代中頃(岩槻先生撮影)

旧校舎

写真2:『さよなら旧校舎』同窓会で撮影 した校舎
(昭和62年9月19日)

 

また私は図体がでかかったせいか、応援団の団員になることを命ぜられました。確かに声の大きさには自信があったので、そちらは心配なかったのですが、旗手を受け持つ事になったのです。“騎手”ならば女の子もキャーキャー騒いでくれて少しは浮かばれるかも知れませんが、“旗手”では村はずれのお地蔵さんのようなもので、じっと立ち続ける忍耐が要求されるつらい立場だったのです。入場行進などでは先頭に立つのですが、屋外競技で風が吹くと大変。旗には物凄く大きな風圧がかかり持っていかれそうになります。しかも先輩達は「いいか、校旗は命。絶対に地面につけてはいかん。つけたらグランド10周などでは済まんぞ。身を挺して守れ」などと、聞くだに恐ろしいことを耳元で囁くではありませんか。私は必死で校旗を支え続けました。次の写真3は、校舎の東端近くにあった講堂の内部です。

講堂

写真3:壮行会や集会が行われた講堂
(昭和62年9月19日)

吾妻登山

写真4:吾妻登山(1学年のとき)
吉澤保夫君、佐藤健一郎君

この講堂で行われる屋内壮行会の場合でも苦労が絶えませんでした。ただでさえ低い天井なのに壇の上に立ちますから、穂先の長い校旗は、かなり水平に近く竿を出して支えなければなりません。物理で言えば回転モーメントが大きいということになりますナ。庄司校長の激励の言葉が早く終わることを願いつつ、体力が養われた旗手担当でした。