藩校興譲館、米沢中学、米沢一高、米沢西高、米沢興譲館高と続く米沢興譲館同窓会公式サイト

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第8回 心一つに改革進め―農民から指導層まで教育―(2014年4月17日毎日新聞山形版)

 第九代藩主上杉鷹山(1751〜1822年)が1776年に創設した藩校「興譲館」は、1776年に落成式が行われている。初年度は藩士の子弟から優秀な20人が学生に選ばれた。将来の米沢藩を背負って立つ人材の育成が目的だった
 しかし、米沢市文化課郷土資料主査の青木昭博さんは「鷹山はエリートだけを養成したわけではない。その何よりの象徴が農村の復興にある」と説明する。

 鷹山が高鍋藩(現宮崎県)秋月家から上杉家に養子に入り米沢藩主となった1767年、米沢藩は財政破綻寸前だった。領地を15万石に減らされても、家臣の数を減らさなかったためだ。年貢が重く、田畑を放棄する農民も出て、農村は荒廃していた。鷹山は藩主になった直後、大倹約令を出した。藩内の抵抗も激しかったが、農政改革を断行した。


米沢市文化課郷土資料主査の青木昭博さん=米沢市金池

 まず72年、「籍田の礼」という儀式を催した。藩主が最初に田んぼに鍬を入れることで、農業を敬い、働くことの尊さを示した。また、農村に郷村教導出役(ごうそんきょうどうでやく)を置き、家族むつまじく仕事に精をだすように教育した。そして、地域共同体の一員としての意識を教え、農民の個人主義を一掃して協力し合うように導いた。
 この教育方法は、鷹山の師で儒学者の細井平洲(1728〜1801年)の訓戒による。平洲は人を導く方法について「菊作りは花の形の良いものだけを選んで育てる。それに対して、農民が菜っ葉や大根を作るときは、形が悪くても1株でも大事に育てる。教育も菜や大根を作るのと同じ」(大井魁「上杉鷹山の師 細井平洲」)と説いた。
 鷹山の藩政改革の根底には、どんな問題でも「人づくり」の思想がある。米沢市上杉博物館の学芸主査・角屋由美子さんは「鷹山は『藩の改革はまず藩全体の意識改革から』と考えていたから」と指摘する。「藩民の心を一つにしなければ改革は成功しない」との思いからだ。だから、財政難の時こそ「人への投資」を重視した。


上杉鷹山公籍田の遺跡=米沢市遠山町

 興譲館もその目的にそった指導層を養成する学問所だ。だが、勉学の向上だけを追求したわけではない。その根本は人間教育で、いずれは藩を背負う学生に譲(他者を思いやる心)を興すことを目標にした。いくら頭が良くても、心に徳がなければ道を誤る。作家の童門冬二さんは小説「上杉鷹山の師 細井平洲」で藩校・興譲館を「心の学校」と表現している。
 興譲館の設立準備が進んでいる最中、鷹山は「総評」という所信を表明した。倹約中でも学館設立にカネを惜しむべきではないことなどを強調し、最後に「年来の宿願、今まさに成る。時なるかな、時なるかな、大夫之を疾めよ(これをはやめよ)」との一文を刻んだ。文面に鷹山の欣喜雀躍ぶりがにじみ出ている。

【佐藤良一・S52卒】
第9回 父母の精神第一に―今も伝わる「慈愛の政治」―につづく

4月17日毎日新聞山形版