藩校興譲館、米沢中学、米沢一高、米沢西高、米沢興譲館高と続く米沢興譲館同窓会公式サイト

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第5回 生命いとおしむ心―戦争と千喜良英之助―(2014年4月12日毎日新聞山形版)

 戦争は興譲の館にも暗い影を落とした。
 第九代藩主上杉鷹山(1751〜1822年)が1776年に創設した藩校「興譲館」の後身、県立米沢興譲館高は「第一に命を尊ぶ」とする建学の精神に立脚する。しかし、戦争は生徒を戦場に送り込み、教師も戦時下で悩み抜き、苦しんだ。沿革史「興譲館世紀」(松野良寅編)にはそれが克明に記されている。
 千喜良英之助(1896〜1965年)も戦争中に校長となり苦悩した一人だ。しかも、校長時代に軍隊に召集された。 


県立米沢興譲館高には、千喜良英之助・元校長の額が掲げられている=米沢市笹野

 1890年に教育勅語が公布されて以降、「社会のために」という教育理念は「国家のために」という愛国の理念にすり替えられた。1925年に軍事教練が必修教科となり、37年日中戦争が勃発。41年に太平洋戦争が始まる。
 45年3月、千喜良は召集令状を受け取り、陸軍少尉として宮城県石巻の部隊に配属された。その隊には、千喜良が卒業証書を渡したかつての教え子、小野田信吉も入隊していた。
 2人は松島近くの兵舎で再開した。小野田は教育隊員、千喜良は小隊長だった。小野田は軍刀を握りしめている元校長の姿を見て、「先生」と一声かけた。すると「がんばれよ」という千喜良の声が返ってきた。
 「興譲館世紀」の編者、松野は同著で、米沢興譲館がたくさんの軍人を輩出した理由を考察することが、未来の教育のためになると指摘している。戦後日本は敗戦から出発し、国が間違った方向に進むこともありうることを学んだ。松野の指摘は、「社会に貢献できる人間」を育てると共に「平和を愛する人間」を育てなければ、という問題提起にも読める。


千喜良英之助の思い出を語る遠藤拓さん=米沢市駅前

 戦後、校長として復帰した千喜良が直面したのは、47年に公布された教育基本法に基づく学校づくりだった。
 当時、千喜良に教わった米沢市在住の遠藤拓さん(88)は「千喜良校長は戦前の軍国教育から、戦後の民主教育への大転換を経験し、たいへん苦労したと思う」と話す。
 だが、情熱的な教育者としての千喜良は戦前も戦後も変わりなかった、全校アンケートで「私の尊敬する人」を問えば、千喜良が最高得点を獲得した。生徒と教師からの人望は圧倒的だったという。
 千喜良は校長を退任した56年、自ら構想し、教頭の奥山政雄に執筆させた「興譲館精神」という名文を生み出した。
 第一に命を尊ぶこと、第二に自分の職責を果たすこと、第三に学び実践することを掲げ、そして「己の生命をいとおしむが故に、人の生命もまたいとおしむ心の発露」こそ「譲」と説いた。

【佐藤良一・S52卒】
=第6回 同郷人支える良き伝統―伊東忠太と米沢有為会―につづく

4月12日毎日新聞山形版