藩校興譲館、米沢中学、米沢一高、米沢西高、米沢興譲館高と続く米沢興譲館同窓会公式サイト

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第2回 相手に寄り添う心―校歌3番と浜田広介―(2014年4月9日毎日新聞山形版)

 「館を興譲と名づけるのは、美徳を習得し、悪徳を排除するためである」
 第9代藩主上杉鷹山(1751〜1822年)は1776年、悲願だった学問所を創設するにあたり、師の細井平洲(1728〜1801年)に学問所の目的と精神を諮問し、名称も依頼した。平洲がこれに応えて作成したのが趣意書「建学大意」だ。
 「美徳」とは「遜譲」を指す。意味は「おごり高ぶらず、相手の気持ちと立場を尊重する心」。興譲はその心を興すことだ。知識の習得ではなく、心の習得に重きを置いた名称には、心に徳がなければ藩を背負う人材は育たないという視点が明確に表れている。藩校「興譲館」はこうして誕生した。

 興譲館の後身、県立米沢興譲館高の全教室には、創学時に平洲が掲げた「学則」とともに、校歌3番が掲示されている。
 「人みなの命をあがめ わが力わが誠 世のために尽くさん」
 作詞したのは県立米沢中(現米沢興譲館高)の卒業生、浜田広介(1893〜1973年)。「泣いた赤おに」「りゅうの目のなみだ」などで有名な「日本のアンデルセン」と呼ばれる童話作家だ。


米沢興譲館高の教室に掲示されている校歌の一節=米沢市笹野

 広介は1893年、現在の高畠町に農家の長男として生まれた。広介の次女で高畠町にある浜田広介記念館の名誉館長、浜田留美さん(80)は「父は置賜盆地の美しい自然に触れ、母や祖母から昔話を聞いて育った」と語る。
 広介は小学生の時、恩師にめぐり合った。陸軍幼年学校に入学を志願したが却下された際、担任の大沼一郎先生から「軍人ばかりがお国のためになるのではない。きみは文才があるようだから、それを伸ばしていくのだよ」と励まされた。この言葉を後生大事にしたという。
 米沢中学に在学中、母親が弟妹3人を連れて家を出て行った。残されたのは父親と長男の広介2人。父親から母親に会うことを禁じられた。
 母親との離別の一方で、母のいとこの荒井さよは広介を支えることに生涯をささげた。
 「ひろすけ童話」は、母に会えない広助の寂しい心と、さよから注がれた愛情が生み出したのかもしれない。


浜田広介の次女、浜田留美名誉館長=高畠町二本柳の浜田広助記念館

 広介の代表作「泣いた赤おに」は、人間と仲良くなりたい赤鬼のために、青鬼が友情を果たす童話だ。青鬼はわざと自分が悪者になり、赤鬼が人間を助ける芝居をうつ。人間と仲良くなった赤鬼は、悪者になった青鬼が心配で青鬼を訪ねる。たどり着くと青鬼は既に旅に出ていた。家の戸に張ってある手紙を読んで赤鬼は、青鬼の友情に涙を流す。手紙の最後は「ドコマデモ キミノ トモダチ アオオニ」。
 自分の立場や感情を横に置いて、相手に寄り添う心。その心を宿すのが「興譲」の意味だ。校歌3番と「ひろすけ童話」にも通底していると感じた。

【佐藤良一・S52卒】
第3回 慕い慕われ 師弟愛―我妻栄と小学校担任―につづく

4月9日毎日新聞山形版