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元医師の親と老いを支えた娘・いわぶちめぐみ(S56卒)著
「思い出づくり 母、美恵子がいた風景」 
(2015年11月25日山形新聞より)

 評著:井上達也(「樹氷」同人、南陽市)
 本著は、亡き母美恵子の執筆した文章、米沢市出身の著者による聞き書き、家族旅行の記録などが母の追悼のためにまとめられた「わが家の歴史」である。
 父慎助はたまたま米沢の病院に赴任したのだった。実家は山形市内のお茶屋さんだったという。母と父の出会いの物語がここから始まっているところが楽しい。
 幼少の美恵子を連れた祖母がある日米沢から山形に出かけ、お茶屋にたまたま立ち寄った。その店の若奥さんは、なんと祖母が教育実習したときの教え子だった。教え子の子供が後に美恵子の夫になったというのだ。そんなこと本人たちは知るはずもなく、東北大学病院の若き医局生たちのサークルで出会ったことが直接の縁で結ばれる。
 かっこいい男性たちを尻目に、よりによって「顔色の悪い貧相な・・・無愛想で陰気」だった慎助に美恵子はなぜか魅力を抱いてしまった。著者はこのことを「若い女性は同情を愛情と間違えるものだ」と断定する。このくだりは私をビミョーな気分にする。私も同情してもらったのかもしれない・・・。
 夫の赴任とともに米沢に舞い戻った美恵子は勤務を断念し医院を開業する。美恵子自身の文章では2週間ぐらい静かだったとある。だが、著者の聞き書きでは開院初日、待ちわびていると近所の若い男性が来院した、とある。「患者が帰ると『キャー!』っと美恵子さんも看護婦も抱き合って喜んだ」。30歳の女医さんの無邪気さがよく表れている。時にはケンカでけがをしたといってヤクザが飛び込んできたりもしたが、千客万来を願い神妙に患者を待つ40年間だったと思う。医院は2001年に幕を引いた。
 両親と著者はやがて茨城県土浦市の老人マンションで暮らす。米沢を懐かしんで、おいっ子たちの助けを借りて帰郷もする。そんな中で、少しずつ老いていく二人の様子が描写されている。私たち誰もが通らねばならない道。著者は自らの障がいとつきあいながらも両親を支え、弱っていく母をわが子と思おうと決心。最期まで付き添うのだ。 (知道出版・1080円)

書籍のご案内「ある戦人の記憶」・いわぶちめぐみさん(2012年9月15日)

11月25日山形新聞