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S38卒ネパール紀行-3 ネパールを旅して・櫛田幸弘さん


お釈迦さまが生まれた日本の仏教寺院の前で

5月13日
ネパールの首都カトマンドゥ航空に着いたのは22時過ぎになる。プレムさん(伊田君のレポートで詳しく紹介されている)一家の出迎えを受け、私のキャリーバッグはアナンタさん(プレムさんの二男)がホテル行きの車まで運んでくれた。皆さんとの挨拶後、私だけが早めに車に乗り込むことになる。乗り込むと同時に、見知らぬ20歳代の若者が、車の窓越しに「チップ、チップ20$」と私に要求する。私は、ホテルまでの車代の前払いかなと思ったので、20$を払った。1、2分後「ツーマン フォーユー、アナーザー チップ20$」先ほどの若者が、再度窓越しに要求。 これには私もおかしいと思った。他の人々が車に乗り込んできて、若者はチップ詐欺師であることに初めて気づく。チップ詐欺は、翌日早朝の、マウンテンフライトの航空待合室でも経験する。もうその手には乗らない。 鉄道は無いに等しい。それなのに道路事情は良くない。無職の若者達に、道路建設の職を与えれば良いのにと、今でも思っている。

5月14日
早朝のマウンテンフライトで、ヒマラヤ山脈が綺麗に展望できた。しかし、飛行機内からの展望は迫力不足。山脈近くまでのトレッキングが流行っているのも頷ける。 車で移動中、山の傾斜面にはゴルフ場を、一方河岸には数多のバラック小屋を目にする。貧富の差が大きいことが容易に想像できる。 マウンテンフライトの後、プレムさん宅のチトワン方面に向かう。移動はドライバー付のレンタカーだ。信号機が無い。センターラインも無い。クラクションを鳴らしながら、巧に遅い車を追い越す。プレムさん宅でピースウェーブネパール(ネパールの教育に奉仕する民間団体で、プレムさんが理事長)の歓迎会が行われ、副理事長のハダさんの他、4名のスタッフが参加する。歓迎会に迎える際、草花をあげるのがネパールの風習で、たくさんの花を頂く。歓迎会中、短時間だが数回停電にあう。水力発電故、乾期には停電は頻発するようだ。 デイナーは、豪華な料理店でとることになる。アナンタさんの友人で、日本語が達者なハリーさんも招かれている。彼は、30台の若人で、札幌と小樽にネパール、チベットとインド料理の店舗を持っている。 「日本人が、ネパールの教育を支援しているのはありがたいと思っている。しかし、自分が日本で得たお金で、本国の教育に貢献しようとは考えていない。そのお金があれば自分の事業を拡張したい。」とハリーさんは話す。若人ならそれも当然と納得できる。デイナー代はハリーさんが支払った。ハリーさんとは縁があり、この後、仏陀生誕地の玄関口、バイラワで2回会うことになる。 後で、プレムさんが北海道訪問を希望している事を知った。ハリーさんが強く誘っているからであろう。当日はプレムさん宅で一夜を過ごす。

5月15日
イダズモデルスクールで私達を迎える記念式典。当日、マオイスト主催のゼネストがある。これには、車のバンパに、外国人旅行者と書いた旗を張って対処した。学校(正確には幼稚園か)に着くと再び、たくさんの草花を頂く。50人の子供達と20人の父兄が集まっていた。 3時間の式典中、プレムさん、ハダさんと先生達が校舎内で何やら相談し、小切手も切っていた。これを見て、一瞬、先生達へのゼネスト対策かなと思った。後で、この小切手は、優秀な子供にプレゼントする、半年分の生活費であることが分かる。スタッフが中座している間、私達は日本の童謡を何度も歌うことで、何とか間を持たす。 式典後半は、子供達へのプレゼント贈呈で、大いに盛り上がる。参加している子供達の服装を見る限り、本当に困窮しているのか?判断がつかなかった。 タダさん宅でのランチを挟み、3校の小中学校と高校を訪問する。日本の学校では体育館、運動場、プール等の施設は当然だが、ここには一切無い。 タダさんの案内で、世界自然遺産のチトワン国立公園に移動。 少数民族によるタルーダンスを鑑賞した。想像したダンスとは大違い。若い男性による、棒を用いた動きの激しい民族舞踊だ。頑健な彼らの身体から、彼らはマオイスト(ネパール共産主義毛沢東派)の武装組織のメンバーに違いないと思っている。

5月16日
早朝エレファント・サファリーの1時間半は、乗り心地が悪く、苦痛だった。鑑賞できた動物は、池に入って動かないサイと数匹の鹿、それに猿と2、3種の鳥だけ。 プレムさん宅でランチを頂いた。プレムさんは、プロパンガスの販売を生業にしているせいか、家にはいつも若人が集まり、賑わっている。 プレムさんの案内で、仏陀の生誕地ルンビニ行。着いたのは、17:00を廻っていた。寺院地区にあるベトナム寺、タイ寺、総教日本寺等の外観だけを見る。仏陀関連の敷地は相当広いことは想像できる。バイラワの夕食では、現地の人にしかできない出来事があった。屋台で、チキン揚げを購入して、先に探し当てていたお店に持ち込んだ。そこは、母子が切り盛りしている小さな料理店だ。ビールも飲みドライバー含めて5人合計1,500ルピー、日本円に換算すると1,800円にもならない。

5月17日
ルンビニで仏陀の生誕地を訪れる。仏陀のマーヤ聖堂よりも、各国の寺院の方が荘厳に見える。インド国境と町並みは、ここが国境かと疑うほどの簡素な場所だった。 しかし、仏陀の生誕地に至る並木道は、生誕地に誘うに相応しく、幅が広く、長いりっぱな道路だ。が舗装はされていない。ルンビニ航空でプレムさんとドライバーとも別れ、私達は空路カトマンドゥへ。 カトマンドゥ飛行場でアナンタさんと再会する。 スリザナさんがホテルで待っていた。(スリザナさんは女性で、姉さんは米沢市在住、安田君が良く知っている。)カトマンズ市内見学は全てタクシーを使う。 スリザナさんの案内で、パタンのタルバール広場の王宮をはじめ、ヒンズー教寺院と仏教寺院等珍しい建築物を見学する。レンガ造りの建物故、耐震性は無いと思う。 アナンタさんと合流後、ゴールドデン・テンプルを見学する。 スリザナさんの実家に立ち寄ることになる。彼女の弟は、高校数学の教師で英語も堪能、伊田君と教育論で大いに盛り上がっていた。4人で夕飯を御馳走になり、中流階級の家庭を垣間見ることができた。

5月18日
ネパール最古の寺院、スワヤンブナートを参拝。アナンタさんの朝の散歩コースにもなっている。仏像と仏像が安置されている周辺は、輝かしい金箔で覆われている。アナンタさんは、「コロンブスはインド、ネパールの黄金伝説を信じて、インドを目指して航海する。インドと間違って、アメリカ大陸を発見することになる。当時のインド、ネパールは、世界一の裕福な国です。」と解説。確かにマルコポーロの東方見聞録を読むと、黄金の国ジパングの他、インドの西中部にあるカンバエット王国は金、銀、銅の産地であることが記されている。ルピー等の宝石類と真珠は、インドの特産物であることも記されている。ちなみに、現在では金の産出国は南アフリカが世界一で、インドは金の需要国として世界一になっている。ネパールがどうであるか、私にはまだ分からない。 スワヤンブナートが建つ丘から、パシュパテイナート寺院が一望できる。ネパール最大のヒンドゥ教寺院である。寺院内にはヒンドゥ教徒以外は入れない。そこで、国立博物館に立ち寄ることになる。 秋篠宮殿下がオープニングで訪れた程、日本に関係が深い建物だ。ホワイトタイガーは剥製でも迫力満点だ。 アナンタさんの家は直ぐ近くにあり、立ち寄りランチを頂く。2人の姉さんも待っていた。 アナンタさんの自宅も、電化製品はインド、中国と韓国製品で満たされている。車だけが日本製品。ネパールの道路は、舗装されていないから砂塵が凄まじい。しかし、エンコ車は一台も見ない。日本の車は、それだけ性能が良いのだろう。アナンタさんが日本で働いていた時、アナンタさんは土曜日も出勤、1日で13時間労働し、日本の若者より高い賃金を得たようだ。日本の若者は怠惰に見え、日本の将来を憂いている。アナンタさんナマステ!! 当日、カトマンドゥを飛び立ち、広州に向かう。

以上でネパール旅行記は終わるが、6月5日19時から某TVで「ネパールの山奥に暮らす日本人」が放映された。 現地でOKバジ(何の頼みごとにもOKするおじいさん)と慕われている垣見一雅さん(72才)の話だ。垣見さんは1990年にヒマラヤ登山の際、若きポーターを転落で亡くす。この青年の死を悼み、貧困に喘ぐ村人を何とかしたいと単身、タンセンに住みつき、18年間で100余りの学校建設に携わる。仏陀の生誕地に相応しい美談だ。私のような凡人には、ネパールに再訪する機会を作るとしても、永住する気にはとてもとてもなれない。垣見さんナマステ!!